東京地方裁判所 昭和48年(つ)4号 決定 1973年8月17日
請求人 佐々木信夫
主文
本件請求を棄却する。
理由
第一本件請求の趣旨
一 請求人は昭和四七年六月二六日、被疑者池辺幸雄の左記被疑事実を刑法一九六条、一九五条一項(特別公務員暴行陵虐致傷)の罪に該当するとして東京地方検察庁に告訴したところ、同庁検察官は昭和四八年六月七日付でこれを不起訴(起訴猶予)処分に付し、請求人は同月九日その旨の通知を受けたが、右検察官の処分には不服があるから、刑事訴訟法二六二条により右事件を東京地方裁判所の審判に付することを求める。
二 被疑事実
被疑者池辺幸雄は警視庁目黒警察署勤務の警察官であるが、昭和四七年三月二日午前零時三五分ころ、東京都目黒区駒場一丁目三六の七目黒警察署駒場一丁目派出所において、外勤警察活動に従事中、相愛交通株式会社タクシー運転手である請求人(昭和一三年八月一四日生)に対し、同人がその運転するタクシーに乗車した乗客との乗車料金等に関する紛争に被疑者が不当に介入したとして抗議した際、同派出所前歩道上において、いきなり請求人の胸倉をつかんで突き飛ばし、小突き、請求人に足掛けを喰らわせて仰向けに突き転がし、請求人の頭部を歩道に擦りつけたり体を小突いたりする暴行を加え、請求人に全治約二四日間を要する右手関節部、腰部挫傷の傷害を負わせたものである。
第二当裁判所の判断
一 本件請求の適否
本件記録によれば、請求人は前記第一の一記載のとおりの経過により、前記被疑者の被疑事実を東京地方検察庁検察官に告訴し、同庁検察官の不起訴(起訴猶予)処分の通知を受け、法定の期間内に適法に本件請求に及んだものであることが認められる。
二 当裁判所の認定した事実
本件不起訴処分記録を検討するに、東京地方検察庁検察官によつて、本件事案の捜査は尽くされていると認められるところ、同記録によれば、次の各事実が認められる。
(一) 被疑者は警視庁目黒警察署に勤務する警察官で、昭和四七年三月当時同署駒場一丁目派出所において、同僚の巡査長北井武雄とともに外勤警察活動に従事していた者であること、
(二) 同年一日午後一一時一八分ごろ、右北井武雄巡査長は大崎警察署管内で発生した強盗致傷被疑事件の隣接配備命令をうけ、張込みのため同派出所を出たので、そのころから翌二日午前零時三五分ころ右命令の解除により同巡査長が同派出所に戻るまでの間は、被疑者が同派出所で一人見張勤務に従事していたこと、
(三) 被疑者が同派出所で一人で見張勤務中であつた昭和四七年三月二日午前零時一〇分ころ請求人の運転するタクシーの乗客西村和代(当時二二年)から「同女がその目的地駒沢までの経路について、請求人の要求を拒否したところ、請求人から文句を言われたため、不快の念を抱き、下車したいと依頼したのに、請求人は返事もしないでタクシーの運転を続けたので、自らドアを開け、タクシーが停車したところを飛び出し、救いを求めに来た」旨の訴出をうけたので、同派出所内で右西村および請求人の双方から事情を聴取したところ、右西村の訴えのとおり、請求人が同女の降ろして欲しい旨の依頼を無視して運転を続けたことや、同女には、もはや請求人運転のタクシーに乗車する意思がないことが認められたので、被疑者は右西村および請求人の双方を説得して、右西村から請求人にそれまでのタクシー料金の支払をさせて同女を帰したこと、
(四) しかるに、請求人は右の説得の過程で被疑者から悪質運転手あるいは雲助運転手などと呼ばれたこともあつて、被疑者の右の処置全体に強い不満を抱き、さらに同派出所に残つて被疑者に対し警察官が民事問題に介入するのは不当であるなどと執拗にからみ、同派出所を立ち去ろうとしないので、被疑者は折から相勤者の巡査長北井武雄が前記のとおり不在でそのまま請求人の応待を続けるときは見張勤務にも支障が生じると考え、請求人に対し同派出所から退出するよう促したこと、
(五) ところが、請求人は同派出所入口付近で同派出所内の被疑者に対して「お前九州だろ。九州のどん百姓めが。もつと勉強して出直して来い。」などと罵言をあびせたりしてなおも執拗に文句を言い続け、退出しようとしなかつたので、被疑者はいささかもてあまし、困惑のすえ請求人を同派出所外に押し出せば、請求人も立ち去るであろうと考え、同日午前零時三五分ころ、同派出所入口付近に立つていた請求人の前面から両肩に手をかけて約二メートル歩道上に請求人を押し出し、この間請求人も後ずさりする格好で後退したが、同派出所前の歩道は車の出入のため約四・九メートルの幅にわたつて車道へ向けてゆるく傾斜し、その傾斜の起点で若干の段差があつたことから、請求人は足をとられてその場に転倒し、被疑事実記載のとおりの負傷(ただし全治までの期間は二二日間であると認められる)をするに至つたこと、
(六) その後まもなく請求人は緊急配備命令の解除により戻つてきた北井武雄巡査長からなだめられて、同派出所を立ち去り、同月五日までは勤務の都合などもあつて医師の診察を受けることなくタクシー運転の業務に従事するなどしていたが、三月六日にはじめて国立東京第二病院医師生沼昭一の診察を受けたこと、その際の病状は、請求人の右手首背部に熱感と圧痛があり、第五腰椎付近にも圧痛が認められるというものであつたが、骨折、脱臼などの重大な傷害ではなかつたので、貼り薬および鎮痛剤の投与をうけ、その後同月一三日、一七日と通院し、その際右手首の患部がまだ熱をもつていたので硼酸水罨法による治療をうけたりした結果、同月二三日には痛みがとれ、同月二五日請求人は同病院医師森田正朗から治癒した旨の診断書の交付をうけたこと、
三 被疑者の暴行の態様について
請求人は被疑者から暴行を受けて転倒した当時の模様として大要「被疑者が派出所から飛び出してきて歩道上にいた請求人の胸倉を両手でつかみ、歩道上を車道の方に向けてグイグイ押し出し、さらに右足で請求人の右足に足掛を喰らわせて請求人を仰向けに転倒させ、その上にまたがるようにして請求人の上半身を上下にゆさぶつた。」旨述べ(同人の検察官調書)ているのであるが、他方被疑者は「請求人の両肩に手をかけて同人の前面から請求人を派出所外に押し出して数歩行つたところ、請求人の足がもつれて転倒したので、そのはずみで被疑者も請求人におおいかぶさつた格好となり、すぐに請求人の両腕をつかんで請求人を引き起したのであつて、請求人に足払いをかけたりしたことは絶対にない。請求人が転倒したのは、たまたま同派出所前の歩道が車道からの車の出入りをスムーズに行うため傾斜している関係で請求人の足がもつれたからにすぎない。」旨供述し(被疑者の検察官調書)ているのである。
そして唯一の目撃者というべきタクシー運転手飯野清治は「たまたま前記派出所前路上をタクシーを運転して通りかかつたところ、車の窓ガラス越しに被疑者が同派出所前歩道上で請求人の両肩に手をかけて請求人を押し出している状景を見たので、付近に車を停めて近づいてみたところ、そのときは既に請求人が転倒しており、被疑者が請求人の上にまたがつている格好をしているのが見えたが、体は離れており請求人の体を被疑者がつかんでいたかどうかは見ていない。」旨供述し(同人の検察官調書)、請求人が転倒する瞬間のありさまを見ていないというのであるから、これらの直接証拠だけでは、請求人と被疑者との双方の供述のいずれに信を措くべきか判断しがたいところである。
しかし、検察官田村達美外二名作成の昭和四八年五月二九日付(同月一九日施行)の実況見分調書(右実況見分時の前記派出所前歩道の状況が本件発生当時のものと異なるものでないことは、司法警察員宮城勝作成の昭和四八年三月一一日付(同月九日施行)の実況見分調書謄本と対比して明らかである)によると、請求人が右検察官の実況見分に立ち会つて、転倒した位置として指示する地点の歩道部分は幅約四・九メートルにわたり車道に向かつてゆるく傾斜していて、その傾斜の起点部の境界のアスフアルト舗装とコンクリート舗装との接点に若干の段差のあることが認められるのである。
そうだとすると、このような歩道上を後ずさりして後退した請求人がこの傾斜あるいは段差に足をとられて転倒するということも充分ありうる訳であるから、請求人の転倒した原因について被疑者が供述しているところも不自然ではないということができ、「被疑者が請求人を転倒させるために足掛を喰らわしたのである。」旨の請求人の供述のみを措信すべきものとすることは相当でないというほかないのである。
したがつて、請求人が負傷するに至つた直接の原因たる暴行の態様として当裁判所が認定できるのは、前記のとおり、請求人の両肩に手を掛けて背後の方に押し出してそのまま約二メートル進んだというものにすぎない。
なお、請求人は告訴状、本件請求書において、被疑者が請求人を小突いたり、頭を歩道に擦りつけたりしたというのであるが、これらは被疑者も否定しており、充分な嫌疑があるものと認めがたい。
四 結論
前記第二の二で認定した本件の事実関係に徴すると、被疑者については刑法一九六条、一九五条一項に該当する特別公務員暴行陵虐致傷の嫌疑が認められるというべきであるが、右のとおり被疑者の右暴行の動機、原因にはその経緯に照して同情すべき点が認められるし、その傷害の部位、程度もさして重大なものではなく、比較的軽微といつてよいこと、暴行の態様も軽微であること、傷害の結果発生も右のとおり極めて偶発的なものと見られることなどの諸点を考慮すれば、被疑者についてはその犯情に酌量すべき点があるから、検察官がその裁量により被疑者の起訴を猶予したことは必ずしも不当ではないというべきである。
結局本件について同様の判断に立つてその裁量により被疑者を不起訴(起訴猶予)処分に付した東京地方検察庁検察官の処分は正当である。
よつて、本件請求は理由がないことに帰するから、刑事訴訟法二六六条一号により本件請求を棄却することとし、主文のとおり決定する。